会員の皆様の活動を紹介するコーナー

ここでは、皆様にお送りしました第2号会報で「さわり」をご紹介しております寄稿文の全文と写真を掲載しています。

今回は当会会員である、神田理事殿、小林真理殿及び尻流師匠からお寄せ頂いた夫々の記事です。


第二回は「実際にゲストにガイドするまでの過程と実際のガイド奮戦記」についてお話します。            神田栄子 (理事、フランス語・広報担当)

 まず来日前にネットでKWGAのホームページを見た外国のゲストが希望の言語と日程をネットで申し込んできます。そこでそのゲストの要望に対応できるメンバーが手を挙げて担当することになるのです。

 やはり圧倒的に英語の需要が多く、次に中国語、スペイン語、フランス語と続きます。受け入れ態勢は整ったものの、フランス語の需要は余りありませんでした。というより我々の活動が余り知られていないせいで、フランス人観光客はいるのですが、申し込みは平均月に1~2件しかありませんでした。フランス語ガイドは
4人いるので、たいていは順番に担当しました。ドキドキしながらの最初のガイドは大変貴重な体験になりました。

 けれども申し込みがあまりに少ないので、観光案内所や空港、横浜や藤沢のホテルにチラシをおいてもらったり、
FBに掲載したり、クチコミなどで宣伝しました。

その効果がでたのか、申し込みも多少増えてきました。また、来日中に私たちのガイドを経験したゲストの多くが大変
満足してくださり、帰国後、日本へ旅行する知り合いや友達にKWGAのガイドを是非にと勧めてくれるケースもちらほら
出てきました。
 

とは言うものの、申し込みガイド数はまだまだ少なく、どのようにこの活動を広めていけばいいのだろうかと定例会で模索する時期が続きました。

そして遂にひとつのアイデアが生まれました。

この方法を「定点ガイド」と名づけました。これは週に一度定期的に鎌倉駅東口改札口の前にそれぞれの言語で左の写真のように書いたA3の大きさの
ポスターのような紙を掲げて目につくところに立つのです。
この方法を「定点ガイド」と名づけました。これは週に一度定期的に鎌倉駅東口改札口の前に
それぞれの言語で次のように書いたA3の大きさのポスターのような紙を掲げて目につくところに立つのです。

毎週金曜日の午前と午後でコースを固定し、それぞれの言語ガイドが仲間うちでローテーションを組んで担当します。

無料ガイドのスタート時間の30分ほど前から駅前に立ち始め、改札を出て
くる外国人の目に付くようポスターを頭上に掲げて、「こちらに来てくれない
かなぁ」と祈るような気持ちで待つのです。ところが気づかずに通り過ぎたり、ちらっと横目で見るだけで行って仕舞う人が多いのです。勇気を出して「無料のガイドサービスはいかがですか」と話しかけてみようと思うのですが、
「なんだか怪しい客引きのように見られたらどうしよう」、と恥ずかしくて、
最初のうちはどうしても声が出ません。他の言語のガイド仲間とも励まし
合って、「Hello, are you all right? 大丈夫ですか。観光案内所はあそこにありますよ。」という声掛けをしてから、
「私たちは鎌倉市のボランティアガイドです。今日は無料ガイドサービスの日です。フランス語ガイドもいます。
もしも興味があればどうぞご参加ください。」と市のガイド身分証明書を見せながら話しかける方法でやっと「客寄せ」ができるようになりました。

 この「定点ガイド」は効果抜群でした。最初は、「えっ無料?」「騙されるのでは?」と疑う観光客もいたようですが、きちんと説明すると多くの方が喜んで参加してくれます。夏のバカンス時期は特にフランス人も多く、時には3組くらい一緒に参加してもらえたこともあります。午前は段葛を通って鶴ケ岡八幡宮へ行く道々鎌倉の歴史や日本の生活習慣について説明します。鎌倉は初めての人がほとんどで興味津々で耳を傾けてくれます。そして「このような素晴らしいフリーガイドの制度は初めてだ!金曜日に来て私達ラッキーだったわ!」と喜んでくださる方ばかりでした(たまには気難しい方もいましたが)。思うように言葉が出てこなくてうまく説明できないこともありますが、このように喜んで頂けると本当に嬉しくなります。引き続いて午後の大仏ツアーにも参加したい、という人がいると午後を担当する仲間にバトンタッチして、
満足度と喜びは倍増しました。

 

ただ冬場は観光客も減り、寒い中30分も駅前で待っていても空振りになることがほとんどでしたので、定点ガイドは3月~10月の8か月限定としましたが、この「定点ガイド」方式と、事前申し込みガイドと合わせるとかなり経験を積む機会が増え、ガイドに磨き?をかけることが出来ました。

今や、3期生のドイツ語ガイドも加わり、KWGAの体制は更に充実してきています。休業中もオンラインで国土交通省官公庁の「インバウンド対応能力
強化研修」を受けたり、ミーティングで鎌倉の観光情報を共有したり、
いつでも観光客の要望に応えられる様に研鑽を積んでいます。

あとはコロナが一日も早く収束してガイド活動を再開できますよう、そして
一人でも多くの外国人ゲストに喜んでいただけるガイドができますよう、
私たち一同皆心待ちにしているこの頃です。

私もフランス語が錆びつかないように、この湘南日仏協会のフランス語講座を受講して、素晴らしい先生のもとで楽しみながら一層の勉強に勤しんでいる
今日この頃です。
                  

                       神田栄子                      


ロシアの話その2              小林真理(在仏会員、メゾソプラノ歌手)

ロシアの話を書いて、次にその2を書きますと言ってから、日がかなり過ぎてしまいました。外ではマスクをとることが許されて、ほとんど普通の生活に戻った、雨模様のパリより書いています。

主人、アレクサンドルの知人で、クラコフでチャプスキー財団を立ち上げておられる、エリザベートというマダムに頼まれて、日本語訳で出ているジョゼフ・チャプスキー( Joseph Czapski )「 収容所のプルースト 」を手に入れ最近読みました。この本はポーランドの貴族の家庭に生まれて、パリに1920年に出てきて 当時ラヴェルやフォーレ、マラルメらの芸術家のパトロンでもあった、ポーランド系の女性, ミシア・セールの援助を受けて画家として活躍していたチャプスキーの書いた本です。1939年の独ソ両国によるポーランド侵入で、ポーランド軍の将校に命じられたチャプスキーは、1940年から1941年ソ連軍に捕らえられ、グリャ―ゾヴェツの収容所に送られて、明日にも殺されるか分からない恐怖から逃れるために、彼らは順番に歴史や文学に関する講義をすることになりました。

 チャプスキーは本の持ち込みは禁止されていたので、以前に読んだ記憶だけを頼って、マルセル・プルーストの「 失われた時を求めて 」の連続講義を行ったのです。零下40度という寒さの中で、チャプスキーの講義に耳を傾け、死を少しの間でも忘れることのできた将校たち、音楽や文学らの芸術が人間を救うことができるという素晴らしさを私はこの本を読んで、実感し、感動しました。そしてチャプスキーの話にはまだ続きがあります。この時に捕虜になっていた将校らはほとんどその後、カティンの森の犠牲者になります。チャプスキーはこの事件から逃れることができて、カティンの森で暗殺された仲間たちの真相を見つけることにも力を尽くし、ドイツのナチの仕業だとされていた暗殺が実はソ連の行ったことだということが後に明らかにされます。カティンの森については、ワイダ監督の映画を見ることをお勧めします。

我々はこの日本語訳の本を、財団の重要参考書の中に入れたいというエリザベートに渡すために6月末クラコフに5日間の旅をしてきました。クラコフは緑に囲まれた中世の美しい街です。チャプスキーは96歳で亡くなるまで、パリで生活して
いましたが、クラコフにはチャプスキーのアトリエを再生した、チャプスキー博物館があります。
                                                

容所のプルースト、
クラコフの美しいヴァヴェル城、ヴィエリチカの塩野鉱山の中の
塩でできた協会

夫々の写真を左に掲載して
ロシアの話その2を終えます

 

 

小林真理

 



     Profil de Monsieur Cyril Coppini

 

Cyril Coppini, originaire de Nice, vit au Japon depuis 1997. Diplômé de la maîtrise de langue et de littérature japonaises de l’Institut National des Langues et Civilisations Orientales (INALCO), il intègre en septembre 1997 le réseau culturel français au Japon (Ambassade de France – Institut français) où les postes qu’il occupe respectivement lui permettent de cultiver et d’aiguiser sa future activité de traducteur. Aujourd’hui, il travaille toujours pour ce même réseau et manie quotidiennement, depuis plus de 20 ans, les mots en français et en japonais. En 2003, il commence sa carrière de traducteur. En 2013, il se spécialise dans la traduction de mangas et jeux vidéo. Cyril Coppini est également artiste de Rakugo (conte humoristique japonais) et régulièrement présent sur les ondes FM et à la télévision japonaise. Juin 1997 Maîtrise de langue et littérature japonaises Paris, France Institut National des Langues et Civilisations Orientale

 

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆

 

De l’apprentissage du japonais au rakugo

 

L’apprentissage du japonais est un long chemin que j’ai emprunté au lycée, dans ma ville natale de Nice. J’étais âgé de 15 ans. C’était rare à l’époque de pouvoir apprendre une langue asiatique au lycée, dans une ville de province. Si j’ai décidé de me mettre au japonais, ce n’était pas pour lire des mangas ou regarder des anime en version originale mais plutôt parce que je trouvais les kana et les kanji relativement esthétiques, certainement parce que pendant toutes ces années, je n’avais vu et lu que les 26 lettres de l’alphabet.


En dernière année de lycée, j’étais
obsédé par les kanji. Je voulais en apprendre toujours plus et mon professeur m’a alors conseillé de m’inscrire après le bac à l’Institut National des Langues et Civilisations Orientales (INALCO).
En 4e année de « Langues’O », le gouvernement japonais m’octroie une bourse d’étude. Ainsi, en octobre 1995, j’arrive à l’université de Shinshû, dans la ville de Matsumoto, préfecture de Nagano pour un séjour d’un an. Ce fut une année remplie de découvertes pendant laquelle j’ai honteusement dilapidé ma bourse d’étude en karaoké et izakaya.
A l’origine, cette bourse devait m’aider à avancer sur le thème de recherche de mon mémoire de maîtrise : l’unification de la langue parlée et de la langue écrite chez Futabatei Shimei.
Shimei est l’un des précurseurs du roman moderne qui cherchait à mettre au point un système de narration réaliste et coucher sur le papier la langue orale du petit peuple, très différente de la langue écrite, alors seulement accessible à l’élite. Dans ses recherches, Shimei citait souvent le rakugo et notamment l’influence qu’avait exercée sur lui la prise en sténographie de L’histoire du fantôme à la lanterne en forme de pivoine (Kaidan Botan Dôrô) du grand maître de Meiji, Sanyûtei Enchô.
C’est en étudiant Shimei que je découvre le rakugo.

En France, on me pose souvent la question suivante : à quelle étape de la formation êtes-vous ? Je fais du Rakugo depuis 10 ans mais je ne suis à aucune étape parce que je n’ai pas suivi la formation zenza – futatsume – shin.uchi consacrée.
Autrement dit, je suis
et je resterai un éternel zenza.
D
ans le rakugo, il y a beaucoup de joies, comme celle de pouvoir présenter cet art au public francophone. Mais surtout, le rakugo me permet de continuer à apprendre le japonais que j’ai commencé à étudier il y a près de 30 ans.
Je me suis installé au Japon en 1997. Après plusieurs années, on arrive à un certain niveau mais qui n’est pas satisfaisant à
cent pour cent.
J’ai pensé à revenir à mes études de littérature et reprendre mes recherches sur Shimei mais est-ce que passer des heures entières, seul, dans une bibliothèque allait être motivant ?
Alors que le
rakugo, c’est vivant, dynamique.
C’est un moyen de continuer à apprendre cette langue que l’on ne finit jamais d’apprendre. De nouveaux mots bien sûr mais aussi de nouvelles façons de s’exprimer, de tourner ses phrases, de présenter ses idées.
Un ami japonais m’a dit un jour : « 
Avant tu parlais déjà bien mais depuis que tu fais du rakugo, tu t’exprimes encore mieux en japonais ».
C’est pour moi le plus beau des compliments.

Cyril Coppini
20 juillet 2021